小泉八雲と妻・セツの愛と生涯:異文化をつないだ夫婦の物語

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概要:明治の文豪・小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)と妻・小泉セツの出会い、家族、代表作、心温まるエピソードを通して、異文化の絆と日本文化への深い愛をたどります。

小泉八雲とは?

本名:パトリック・ラフカディオ・ハーン(Lafcadio Hearn) / 1850年–1904年 ギリシャ生まれでアイルランド系の父を持ち、アメリカで新聞記者を経た後、1890年に来日。松江、熊本、神戸、東京などで教職や執筆を続け、日本の自然・信仰・民俗を外国語圏に紹介した作家です。日本文化の「幽玄」や「もののあはれ」を西洋に伝えたことから、国際的にも高い評価を受けています。

妻・小泉セツとの出会い

松江中学校(当時)に英語教師として赴任していた八雲の世話役として紹介されたのが、のちの妻・小泉セツでした。セツは旧松江藩士の家柄で、和裁に通じた穏やかな女性。二人はやがて結婚し、八雲は日本名「小泉八雲」を名乗るようになります。 当時、外国人と結婚することは珍しく周囲の反応もさまざまでしたが、互いへの敬意と理解が夫婦生活の基盤となりました。

夫婦の心温まるエピソード

セツが語る“日本の心”

八雲は日本語が完全ではなかったため、セツは夜に昔話や民話、怪談を語って聞かせました。これらの語りが後の代表作『怪談(Kwaidan)』の重要な素材になったと伝えられています。セツの語りは八雲にとって「日本文化の教科書」でした。

病弱な八雲を支えた日々

晩年にかけて八雲は体調を崩しやすく、視力や神経の問題に悩みました。セツは季節に合わせた和食や静かな暮らしで彼を支え、穏やかな家庭を築きました。こうした日常が、八雲の作品に流れる“静かな美”の源泉となりました。

ふたりの子どもたちについて

二人の間には4人の子どもが生まれました。以下は代表的な情報です。

名前 生没年 主な足跡
小泉一雄(こいずみ かずお) 1893–1945 東京帝国大学卒。父の伝記『父・小泉八雲』を執筆し、八雲研究の礎を築いた。
小泉清(きよし) 1895–? 学者志望。若くして病に倒れたとされる記録がある。
小泉房子(ふさこ) 1897–? 長女。家族とともに父の遺志を守ったと伝わる。
小泉光男(みつお) 1901–1956 医師。戦後、父の功績を広める活動にも尽力した。

長男・一雄の記録や研究により、八雲の思想や家族史が後世に伝えられています。

小泉八雲の代表的な著書

  • 怪談(Kwaidan) — セツらから聞いた日本の民話・怪談をもとにした短編集。「耳なし芳一」や「雪女」などが世界的に有名。
  • 日本の面影(Glimpses of Unfamiliar Japan) — 来日直後の日本の風俗や暮らしを描いたエッセイ集。日本文化への敬愛に満ちている。
  • 神国日本(Japan: An Attempt at Interpretation) — 日本人の精神性や宗教観を論じた比較文化的・哲学的著作。

セツと八雲が残したもの

セツが日常で伝えた日本の物語と暮らしは、八雲の文学に深く刻まれました。八雲は日本を第二の故郷と呼び、1904年に東京で没します。以降、家族や研究者たちによってその業績は守られ、松江には今も「小泉八雲記念館」が残り、夫婦の足跡を伝えています。

まとめ:異文化の絆が生んだ永遠の愛

小泉八雲と妻・セツの関係は、言葉や風習が異なっても互いを理解し尊重することで深まる愛の象徴です。セツの語りと暮らしが、異国の作家に日本文化の本質を教え、それが世界へと伝わった──そんな物語がこの夫婦の遺した最も大きな遺産でしょう。 「ふたりの愛は、今も松江の静かな風の中で息づいている」

タグ:小泉八雲 / 小泉セツ / ラフカディオ・ハーン / 怪談 / 明治文学
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