花屋で2年間働いて思ったこと。好きなことを仕事にする難しさと、人間関係のしこり

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花屋で2年間働いていたことがある。

私が花屋で働こうと思ったのは、寄せ植えを作りたかったからだ。

いろいろな花や植物を組み合わせて、自分なりの作品を作る。そんな時間を楽しみながら、みんなで和気あいあいと働けたらいいなと思っていた。

けれど、実際に働いてみると、思い描いていた世界とは少し違っていた。

そこには、植物を育てたり、花を美しく組み合わせたりする楽しさだけではなく、人と人との競争や、複雑な人間関係があった。

2年間働いた今でも、ふと思い出すことがある。

もう過去のことなのに、なかなかきれいに消えてくれない気持ちがあるのだ。

花屋は、花だけを見ていればいい世界ではなかった

寄せ植えは、ある意味で芸術だと思う。

どんな花を選ぶのか。色をどう組み合わせるのか。高さや広がりをどう見せるのか。

同じ植物を使っても、作る人によって仕上がりは変わる。

そこには、それぞれの個性があっていいと思う。

自分の作品に自信を持つことも、素晴らしいことだ。

「私が作る寄せ植えが一番好き」
「私には、誰にも負けないセンスがある」

そんなふうに思えることは、自分の仕事を誇りに思うことでもある。

私自身も、いつか自分の作るものに対して、そんな自信を持てたらいいなと思う。

ただ、その自信が他人への評価に変わってしまうと、少し違ってくるのではないだろうか。

「あの人の植え方はよくない」
「あの人の作るものは、あまりきれいじゃない」

そんなふうに、自分の作品への自信が、いつの間にか他人の作品を否定する言葉になってしまう。

自分が一番だと思うことと、誰かを自分より下に置くことは、同じではないはずだ。

私は、そんなことを考えていた。

職場には、誰もが一目置く強烈な人がいた

花屋で働いていたとき、私にとって特に印象に残っている人がいた。

その人は、とても存在感の強い女性だった。

寄せ植えを作ることにも自信があり、職場の中で大きな影響力を持っていた。

周りの人たちも、その人の顔色をうかがったり、気に入られようとしたりしているように見えた。

女性同士の関係にも、どこか競争のような雰囲気があった。

もちろん、職場の人たち全員がそうだったわけではない。

それでも、私には、誰が評価されるのか、誰が中心にいるのかということが、いつも意識されているように感じられた。

その女性は、ほかの女性たちを辞めさせるようなことにも関わっていた。

少なくとも私の目には、その人の存在が、職場の空気を大きく左右しているように映っていた。

そして、もう一人、男性がいた。

その男性の存在もあってか、みんながその女性に気に入られようとしているように感じることがあった。

私には、それが不思議だった。

その人は社長ではない。

それなのに、まるでその人が決めたことは絶対であるかのような雰囲気があった。

私は、その人が寄せ植えを作ること自体に不満があったわけではない。

上手な人が寄せ植えを担当することは、自然なことなのかもしれない。

私がどうしても納得できなかったのは、特定の一人が絶対的な存在になってしまうことだった。

仕事をするうえで、経験や技術の差があるのは当然だ。

でも、それと人としての上下関係は、本来別のものなのではないだろうか。

上手な人が主役になり、後から入った人は雑用をする

職場には、それぞれの役割がある。

寄せ植えを作るのが得意な人は、寄せ植えを担当する。

経験のある人や、自信のある人が中心になって仕事を進めていく。

それ自体は、決して悪いことではないと思う。

お客さんに選んでもらうためには、きれいな商品を作る必要があるし、お店として売れるものを作らなければならない。

得意な人に任せることには、合理的な面もある。

ただ、後から入った人はどうなるのだろう。

寄せ植えを作りたくて入ったとしても、実際に任されるのは、外の草を抜くことだったり、玄関を掃いたりすることだったりする。

もちろん、そうした仕事も大切だ。

花屋は、花を植えて並べていればいいわけではない。掃除も、水やりも、植物の管理も、お店を支える大切な仕事だ。

私も、それを否定したいわけではない。

ただ、毎日そうした仕事をこなしながら、ふと疑問が浮かんでしまう。

「私は寄せ植えを作りたくて、この仕事に入ったんじゃなかったかな」

「あの人は寄せ植えを作っているのに、私はどうしてこの仕事ばかりなんだろう」

そんな気持ちが、少しずつ積み重なっていく。

体力があって、気持ちに余裕があって、毎日元気に働けていたら、また違ったのかもしれない。

掃除も草取りも気持ちよくこなしながら、いつか自分も寄せ植えを作れるようになることを楽しみにできたのかもしれない。

でも、実際の私は、いつもそんなふうに前向きでいられたわけではなかった。

自分がやりたかったことと、実際に与えられる役割。

その間にある距離が、私には思っていた以上に大きかったのだと思う。

自信を持つことと、他人を否定することは違う

私は、自分が作るものに自信を持つことは、素晴らしいと思っている。

「私の寄せ植えが一番きれい」
「この組み合わせなら、私が一番いいものを作れる」

そう思えることは、その人の強みになる。

自分の中に確かな軸があるからこそ、誰かの評価に振り回されずに、自分の作品を作り続けられるのかもしれない。

私も、そんなふうに自分の得意なことを見つけたい。

でも、自分の中にある自信を、わざわざ他人に向けて発信する必要はあるのだろうか。

自分の作品を大切にすることと、ほかの人の作品を否定することは違う。

誰かの植え方が自分の好みではなかったとしても、それだけで、その人の作品に価値がないことにはならない。

芸術には、さまざまな表現がある。

自分には思いつかなかった組み合わせが、ほかの人にとっては魅力的に映ることもある。

そして、何より、花を美しいと思う感覚は人それぞれだ。

もちろん、商品として販売する以上、品質や技術について意見を交わすことは必要だと思う。

ただ、作品への意見と、作った人そのものを否定することは、分けて考えたい。

私は、誰かが自信を持っていることを否定したいわけではない。

むしろ、自信を持てることはうらやましい。

でも、その自信が誰かを傷つけたり、誰かの居場所を奪ったりするものになってしまうのなら、少し悲しいと思う。

人に振り回されず、自分の世界で仕事をすることはできるのか

本当は、誰かが自分にライバル心を持っていたとしても、それほど気にせずに生きられたらいい。

自分が作りたいものを作り、自分が納得できる仕事をする。

ほかの人が何を考えているのか、誰を評価しているのか。

そんなことに振り回されず、自分の世界を大切にできたらいいと思う。

相手が自分をどう思っているかは、相手の問題でもある。

誰かが私に対して競争心を持っていたとしても、私まで同じように競争する必要はない。

頭では、そんなふうに考えられる。

でも、実際に組織の中で働いていると、そう簡単にはいかないこともある。

毎日顔を合わせる人がいて、仕事を割り振る人がいて、評価する人がいる。

誰かの一言で、その日の気分が変わってしまうこともある。

自分では気にしないようにしていても、周りの空気を感じ取ってしまうこともある。

そして、体調がよくないときや、疲れているときには、いつもなら流せることが心に引っかかってしまう。

私は、もっと体力があればよかったと思うことがある。

人の言葉や態度を気にせず、淡々と仕事をこなせる自分だったらよかったのに、と。

けれど、今になって思う。

どんな環境でも、いつもご機嫌でいられることが、本当に正解なのだろうか。

自分が苦しいと感じているのに、何も気にしていないふりをすることが、強さなのだろうか。

もしかしたら、私に足りなかったのは、体力や気持ちの持ち方だけではなかったのかもしれない。

自分に合わない環境を、自分の努力だけで何とかしようとしていた部分もあったのではないだろうか。

今になって思う。「あのとき、こうすればよかった」

花屋を辞めた今でも、ときどき過去を思い出す。

あのとき、こうすればよかった。

あんなふうに考えられたらよかった。

もっと自分の気持ちを守る方法があったのではないか。

相手の言葉をまともに受け止めずに、自分のやりたいことに集中できていたら、少し違ったのではないか。

そんなことを考えることがある。

過去は変えられない。

どれだけ考えたところで、あのときの職場に戻って、別の行動を取ることはできない。

それに、当時の自分には、当時の自分なりの事情があった。

体力も、気持ちの余裕も、人間関係への向き合い方も、今とは違っていた。

今だからこそ思いつくことを、当時の自分ができなかったからといって、責め続ける必要はないのかもしれない。

それでも、心にしこりが残っている。

頭では過去のことだとわかっていても、気持ちは必ずしも、頭の言うとおりにはならない。

もう終わったことなのに、ふと思い出してしまう。

そんな自分を、どうしたらいいのだろう。

私はまだ、その答えを完全には見つけられていない。

花屋で働いた2年間は、無駄だったのだろうか

私は、寄せ植えを作りたくて花屋に入った。

花や植物に囲まれながら、ものを作る楽しさを感じたかった。

できれば、みんなで楽しく働きたかった。

でも、実際には、人間関係や競争、職場の中での立場など、花とは直接関係のないことに悩む時間も多かった。

思い描いていた働き方とは違っていた。

だからといって、あの2年間がすべて無駄だったとは思いたくない。

自分が何を大切にしたいのか。

どんな人間関係の中で働きたいのか。

どんな環境なら、自分の力を発揮できるのか。

そうしたことを考えるきっかけにはなったと思う。

私は、平等であってほしかった。

誰か一人が絶対的な存在になるのではなく、それぞれの得意なことを認め合える職場がよかった。

寄せ植えが上手な人は、その技術を生かせばいい。

掃除が得意な人も、植物の管理が得意な人も、それぞれの仕事を大切にすればいい。

そして、経験の浅い人にも、少しずつ挑戦する機会があってほしい。

最初から全員が同じ技術を持っているわけではないからこそ、教え合ったり、成長を見守ったりすることができたらいいと思う。

もちろん、仕事には責任があるし、すべての人の希望をかなえることは難しい。

お店を続けていくためには、効率や売上も大切だ。

それでも、人を大切にすることと、仕事の成果を求めることは、両立できるのではないだろうか。

少なくとも私は、そういう場所で働きたかった。

これからは、自分の心が喜ぶ場所を大切にしたい

花屋で働いていた頃の私は、もっと体力があれば、もっと人のことを気にしなければ、もっと上手に立ち回れたら、と思っていた。

今でも、そう思うことはある。

でも、これから先もずっと、自分に足りなかったものばかりを探していたら、きっと疲れてしまう。

自分がもっと強ければ、もっと器用だったら、もっと気にしない性格だったら。

そんなふうに考えることもできるけれど、そもそも、すべての人がどんな環境にも適応できるわけではない。

人にはそれぞれ、得意なこともあれば、苦手なこともある。

楽しく働ける場所もあれば、どうしても心がすり減ってしまう場所もある。

それは、努力が足りないということだけでは説明できないと思う。

私は、花屋で働いた2年間を通して、人間関係の難しさを知った。

好きなことを仕事にしても、それだけで毎日が楽しくなるわけではないことも知った。

そして、自分が大切にしたい価値観と、周りの人が大切にしている価値観が違うこともあるのだと知った。

今も、ときどき過去を思い出してしまう。

あのとき、こうすればよかったのに、と考えることもある。

でも、過去を変えることはできない。

変えられるのは、これからの自分の選択なのだと思う。

誰かに認められるためだけに頑張るのではなく、自分が心地よく働ける場所を探すこと。

誰かの評価を自分の価値と結びつけず、自分の好きなものを大切にすること。

そして、自分が何かに自信を持てたときには、その自信を誰かを傷つけるためではなく、自分を前に進めるために使うこと。

そんなふうに生きていけたらいいなと思う。

花屋で過ごした2年間は、私が思い描いていたものとは少し違っていた。

それでも、あの経験があったからこそ、今の私が考えられることもある。

まだ完全に消化できたわけではないけれど、いつかあの頃の自分に対して、「あれはあれで、よく頑張ったね」と言えるようになれたらいい。

そしてこれからは、誰かの機嫌や評価に振り回されることなく、自分の心が喜ぶものを、もっと素直に楽しんでいきたい。

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